W杯出場決定でかわされる戦い方の話。「自分たちのサッカー」の是非論に感じる疑問
オーストラリア戦とはどんな戦いだったか
■「自分たちのサッカー」その定義とは
しかし、残念なことに、サッカーとは永遠に正解のない″問い”です。もしかしたらそれは人生と同じですが、”自分なり”を極めていくしかないのです。
つまり、それはバランスの問題である、ということです。「自分たちのサッカー」に100パーセント傾いていては勝てるわけがなく、相手に100パーセント合わせていても然りなのです。
選手たちというのはこのバランスをずっとサッカー人生の中で考えながらシーズンを過ごし、そのバランスの中で戦っています。どのくらい「自分たちのサッカー」で押し切ることができるのか。それを調子の波や相手との兼ね合いによってバランスの中を行ったり来たりしているのです。
ですから、「自分たちのサッカー」を100パーセント貫けることを理想としながら、それがうまくいかないことくらい、誰しもが経験で知っているのです。
問題はその先です。
「自分たちのサッカー」とは一体何か。その定義です。
(ALE14でもお話したのですが)僕が所属していた鹿島アントラーズは伝統的に変幻自在の勝ち方で勝利を収めてきましたが、その鹿島でも「自分たちのサッカー」がないわけではありません。実は、僕たちにもありました。ただ、それは僕たちにとっては、ある一つのやり方ではなかったのです。
「自分たちのサッカー」とは僕たちにとって、あるいは鹿島アントラーズにとって、いつも「献身・誠実・尊重」を体現できた空気感なのです。やり方はそのときの選手、そのときの試合で変わってきますが、サッカーをやったものには一度は味わったことがあるであろう、”チームが一つになる”空気感こそが「自分たちのサッカー」なのです。
そこに至るためには、自分たちが一番心地いい戦い方で向かうのが手っ取り早いです。しかし、サッカーとはそんなに簡単なスポーツではありません。そのときに、心地よく試合を進められなくても自分たちのリズムに持ちこむことができる。それを構築できれば、それさえも「自分たちのサッカー」である、ということなのです。
オーストラリア戦の日本代表は確かに、オーストラリアを研究した上で戦い方を選び、対策を明確にして戦っていました。しかし、彼らは”リアクション”では決してありませんでした。大迫選手は自らのアクションで大柄の選手たちと渡り合い、中盤の選手たちは自分たちのアクションによって中盤を支配していきました。それに「自分たちのサッカー」という感触をもった選手もいたでしょう。つまり、「自分たちのサッカー」とは、やり方の話ではないのだと思います。
大事なことは、主体的であるか、受動的であるか。
つまるところ、戦術もシステムも、はたまたやり方も戦い方も、全ては主体的に選手たちが戦うためのものであるのだと思います。
指導者や解説者としてスタートを切ってから半年。サッカーというスポーツに勘違いをしてはいけないと日々痛感しています。「勘違い」とは、「自分が正解などもっていない」ということを忘れないことです。
”チームとしての正解”を決め、その正解を「考えろ」と言っても、それは考えることになりません。日本人の特性上、正解があるものを”考える”というのは居心地がいいものかもしれませんが、それでは”サッカーを知っている”選手になり得ないのです。
だって、サッカーに正解はないのですから。サッカーはバランスの上にたっていて、最後はそのバランスを自分の判断で見つけていくしかないのですから。
「自分たちのサッカー」が一つの戦い方である必要があるとは、これまで誰も言っていません。いや、はじめは誰しもそう思っていたはずなのです。しかし、言葉の力によって、僕たちは「自分たちのサッカー」を貫くか否か、の二元論で話すようになり、結局、正解を見つけられず彷徨っています。
「議論」とはそういうものなのかもしれませんが、サッカーとは判断のスポーツ。全てはバランスの上に成り立ち、選手とは正解のない問いに、”自分なりの答え”を判断し続けていくしかない。僕たちは、そんなことをサッカーを通じて学ぶのです。
だから、サッカーは面白い。そして、果てしない。
〈岩政大樹。東京ユナイテッドFC。9月16日「PITCH LEVEL 例えば攻撃がうまくいかないとき改善する方法」を上梓〉
【岩政大樹の現役目線】
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